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2017年12月01日

自分で決めたことなのに、いつまでも本当にそれでよかったのかと悩んでしまう。 「FOBO(良い選択じゃないことを過度に恐れる)」に対する対処法






自分で決めたことなのに、いつまでも本当にそれでよかったのかと悩んでしまう。
「FOBO(良い選択じゃないことを過度に恐れる)」に対する対処法


人生は日々選択を迫られる。例えば今日着る服や食べる物など個人的なことから、友人の誘いや愛の告白、組織内に所属しているのなら様々な業務にかかわることなどなど。

 あまり考える時間がないのに決断を下した場合などは、本当にこれでよかったのかと悩む場合もあるだろう。

 だが、数日前に決めたことなのに、いつまでもそれでよかったのかとクヨクヨしてしまう、いつまでもそれをひきずってしまう。

 単なる優柔不断と切り捨ててしまうのは簡単だが、そこにはこんな現象がかくれている。FOBO(Fear of a Better Option)は、自分が良い選択をしなかったことを過剰なまでに恐れることを言う。

 最新の研究によれば、完璧な選択を過度に求めような人に一般的な現象で、こうなると選ばなかった選択肢についていつまでも気に病むようになる。

 FOBOは不満や後悔を抱かせる。そして決断の結果ではなく、決断のプロセス自体が健康や幸福感に悪影響を与えるようになる。

研究で分かったFOBOになりやすい追求者のタイプ

『パーソナリティ・アンド・ソーシャル・サイコロジー・ブルティン(Personality and Social Psychology Bulletin)』に掲載された論文では、カナダ、ウォータールー大学の研究チームが一連の実験を実施し、”追求者”のタイプを調査した。

 ここで言う追求者とは、意思決定の際、絶対的に最高の選択肢を見つけるために広範な調査を行う人だ。

 そうした人は、お昼を注文するためにメニューを3回読み返したり、旅行先を決めるために世界中のあらゆる旅先を検討するかもしれない。

損か得かを追求するタイプは比較的安全

 追求者の1タイプが、”プロモーション重視”タイプだ。このタイプは、経済的・社会的なことなど、最大の利得が得られる選択を求める。実験では、このタイプの人はかなり決断が速く、その選択に満足し、後悔することも少ないことが明らかになっている。

人にどう見られるかを追求するタイプはFOBOになりやすい

 また別のタイプが”評価重視”タイプだ。選択肢を吟味し、他人ならどうするだろうか、友達にどう見えるだろうかといった様々な要素を考慮する。このタイプは選択肢を何度も何度も検討し、すでに捨てたはずの選択肢も反芻する。

 「このタイプの人の思考は、『正しいことが分かるまで何もしたくない』です」と筆頭著者のジェフ・ヒューズ(Jeff Hughes)博士は話す。「役に立つときもありますが、いつまでも評価を繰り返して、決断できない状態に陥ってしまいます」

 こうした習慣があると、実際に選んだ選択を楽しめなくなるばかりか、うつや物事の先延ばしにもつながる。「決めたことにいつも不満を感じたり、後悔していたりすると、人生の満足感が低下するといった非常に悪い影響が出てきます」


一度決めた決断をクヨクヨ悩まない方法

 では、どうすればFOBOを避けられるだろうか? ヒューズ博士の研究は問題を特定するだけで、その解決方法については何ら触れていない。が、いくつか提案があるそうだ。

 「大雑把に言って、今回の研究は、悪い選択肢を手放すことを思い出させる手助けになるかもしれません」と博士。

1.消去法を使用する


 決断するときはあらゆる選択肢を導き出す。そして良くないと思ったものを外していく。そのときに役に立つのは自分の直感だ。なんとなくいやが予感がするという感覚はわりとあてになるものだ。


2.評価基準を作り一度選んだらあとは忘れる。

 ★5つ評価などの「十分満足できる」の基準を採用しよう。満足できる最低基準を考えて、それを上回る選択肢を探す。

 そして、それを選んだら、あとは忘れよう。決定を単純化すれば、もっと重要なことに時間を使うことができる。


3.決断までの時間制限をもうける

 それでもダメなら、制限時間を設けよう。追求者は、もっといい選択があるはず、とできるだけ決定を遅らせようとする。一見、スマートに思えるが、それは彼らが「でももし?」と考え続け、堂々巡りを繰り返しているということを意味する。

 例えば「飛行機のチケットについて30分だけ調べる」といった具合に宣言するのだ。その制限時間内で最良のチケットを購入し、次のことを行う。

 「意思決定においては、時間もまたコストであることを思い出しましょう。その時間はもっと大切なことを決定するために使うべきでしょう?」と博士は言う。
 

 ただしヒューズ博士は、意思決定の質については触れていない。そのため、そうやって決めたことが最良の結果につながるとは限らない。

 しかし自分の決断について、ずっと気分良くいられることだろう。決断をするということは覚悟を決めるということだ。覚悟を決めた人間は強い。

 例え最良の選択ではなかったとしても悔やんでいる暇はない。なぜなら人生は選択の連続で、次に決断しなければならないことはもう目の前にあるのだから。人生にリセットボタンはないと言われているが、何度も分岐点を選ばなければ前に進めないし、後戻りは決してできないことになっている。
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2017年11月02日

なかなか言えない「NO」だけど・・・「ノー」を伝えるための4つのヒント






なかなか言えない「NO」だけど・・・「ノー」を伝えるための4つのヒント


 「ノー(いいえ)」を言うには勇気がいる。なんでも快く引き受けることができる理想の自分像を持っている人なら、できれば「イエス(はい)」と言いたいし、「イエス」と言える人間でありたいと思っている。

 だが「イエス」ばかり言っていると、それが重荷になり、かえって問題を抱える結果になってしまう。

 誰だって多少は自分の時間や好きなことができる余裕が必要なのだ。職場であれ、家庭であれ、友達と一緒にいるときであれ、ときに「ノー」と言っても、それは利己的などではないのだ。

 

 実際、「イエス」と言うことが、たとえそれが良かれと思っての発言であったとしても、利己的な選択であることもある。

 がっかりさせたくなくて「イエス」と言ったがゆえに約束の山が崩れてしまったときの方が、ずっと大きな失望感を与える。約束を破るくらいなら、「ノー」と断るほうがましだ。

 本当は手助けしたいと思っている場合でも、状況によっては「ノー」と言わなければならない。でもなかなか言えない。それは意思の強さの問題だろうか?

 そうではない。ある研究によれば、特に女性は仕事において役に立つボランティアであることを当然のように期待されているのだという。つまり「イエス」と答えても評価されないが、「ノー」と断れば評価が下がるのだ。

 「ノー」と言っても駄目、「イエス」と言っても望ましい結果にはならないのだから、まさに進退窮まった感じだ。だが、苦しみながら誰に対しても「イエス」と言い続けることは、長期的には現実的な戦略ではないだろう。


 そのようなとき役立つかもしれないヒントがある。

1. どこかで線引きしなければいけないことを忘れない

 いつも「イエス」と言い続ければ、あなただけでなく、周囲の人にも迷惑をかけるときが来る。問題はどこで線引きをするべきかということだ。それが今ではないのなら、いつ?


2. 尊敬している人ならこんなときなんというか考える

 友達や先生など、過去から現在までであなたが最も模範にした人を考える。そして、その人なら何とアドバイスしてくれるだろうかと想像してみる。「ノー」と言っても許してくれるだろうか?


3.ノーと言わなければならない状況を説明する

  手助けしたくないわけではないことを説明する。それどころか力になりたいのだ! だが新しいことを引き受けては、別の誰かをがっかりさせてしまう。我が身を守ることを考えるよりも、他人の利益を守ることを考えた方が、自分の立場を確かなものにしてくれる。


4. 将来に「イエス」と引き受ける姿を想像する

   断ったことで自責の念にかられることがあるかもしれない。将来的に手が空いたら頼みをきいてあげる自分の姿を想像しよう。これはあなたが不親切だから「ノー」と言っているわけではないことを思い出させてくれる。とは言え、今日の約束を逃れるために明日の約束をするというのは良くない。間違いなく果たせるものであるか注意しよう。さもないと、雪だるま効果となって、さらに負担が増えることになってしまう。


 信頼できる人物は己の限界を心得ている。有能で、親切で、信頼できる人物は、必要なときに「ノー」と言える人物だ。

 どうしても、ノーと言うと、相手を傷つけてしまうんじゃないかって思ってなかなか言えなかったりするよね。結果的にそれで気まずくなってしまったりもするので、ダメなものはダメ、無理なものはムリって言えるようにしたいね。
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2017年10月23日

わかっちゃいるけどやめられない。細かいことが気になってイライラが止まらない。強迫性障害(OCD)という心の病






わかっちゃいるけどやめられない。細かいことが気になってイライラが止まらない。強迫性障害(OCD)という心の病

 思考とは不思議なものだ。会社に向かいながらふと、頭の中にコモドドラゴンが湧いてきたり、買い物中に「ここWIFI飛んでるなぁ〜」などと、お笑い芸人のネタを思い出したりする。 こうして時折、予想もしない考えに見舞われながらも、その考えはすっと消えていき、日常はいつも通りに続いてゆく。

 だがこれこそが正常な脳の働きなのである。そうでないのが強迫性障害(きょうはくせいしょうがい:OCD)の人々だ。

 強迫性障害は精神疾患の一種で、ある考えにとり憑かれ最後、その考えが頭から離れなくなる。無駄だとわかっていても何度も同じ行為を繰り返してしまう。その為、神経質とか完璧主義者などと言われることも。

 では、その患者は単なる神経質な完璧主義者なのだろうか?

 強迫性障害に関して詳しく紹介していた海外サイトがあったので見ていくことにしよう。

日常の生活に支障をきたす場合には強迫性障害の可能性が


  精神疾患としての強迫性障害と診断されるのは、その人が強迫観念や衝動強迫のために日常生活に支障をきたすような場合のみだ。

 強迫観念(きょうはくかんねん)とは、本人が不合理であると自覚しているが、取り除けない侵入性の思考や心配のことだ。また衝動強迫(しょうどうきょうはく)とはどうしても止められない儀式(心理学でいう病的に繰り返される行為のこと)のことだ。


強迫性障害だった発明家、ニコラ・テスラ

 期待されるようなイメージは大げさで、奇抜なものだが、実際の症状は少々退屈かもしれない。強迫性障害のエキセントリックなイメージが出来上がったのは、19世紀の発明家ニコラ・テスラのせいではなかろうか。



 彼は細菌、髪の毛、丸いものに強迫的な恐怖を感じていた。また建物に入る前にブロックの周りを3回回ったり、3の倍数のものを受け取ったりと、3に関連する奇抜な儀式を行っていた。誰もが特定の数字にこだわるわけではないが、細菌への恐怖から生皮が出るほど手を洗うなどの儀式は、強迫性障害の患者によく見られるものだ。


外からはわかりづらい純粋強迫性障害

 病気の象徴のようにも思われるこうした儀式だが、外からはなかなか分からないものもある。これは純粋強迫性障害と呼ばれ、一見して分かる儀式は行わない。しかし、これは最も重度な症状の1つで、患者は一般に自分のアイデンティティについて暗い心配や疑いを抱いている。

 例えば、赤信号で車を停止した人が、道路を渡る歩行者を見て、「アクセルを踏んだらどうなるだろうか?」と考える。普通の人ならふと浮かんだ考えに肩をすぼめて終わらせるだろうが、純粋強迫観念を持つ人は、自分がサイコパスなのではないかと疑い始める。

 患者は強迫衝動的に心の状態を”チェック”するために、似たような考えがまた浮かばないかとドライブに出たり、自分がシリアルキラーに共感するのではないかとホラー映画を見たりする。

 実際は、そうした妄想は患者の性格や行動とは真逆なのだが、本人は自分がサイコパスではないと確信を持つことができない。また人を傷つけようとする強迫観念が本心であると誤解されることを恐れ、病院に行くことができない。


自分の思考を自分のものと思えない

 神経科学の博士号を持つベストセラー作家サム・ハリスは、私たちは自分の思考の作家ではないと強調する。

 思考しているとき、紙に記述するか、新しい言葉を学んでいるのでもない限り、私たちは心に浮かぶ単語やイメージを意識的に選びはしない。

 そんなことをしていたら時間がかかって仕方がない。また思考や単語が心に浮かんだ理由も理解できない。それなのに人は自分の思考は自分のものだと感じている。では、強迫性障害の患者が思考を自分のものと思えない原因は何だろうか?


大脳基底核の不具合

 強迫性障害とよく関連づけられるのは大脳基底核(だいのうきていかく)という部分だ。これは大脳皮質の下に隠れており、それが間違いを犯さない限り、私たちはその存在に気づくこともない。

 大脳基底核は不随意運動を起こすような運動障害の文脈で最もよく理解されている。例えば、片側バリスムス(片側バリスム)という病気では、体の片側に激しく手足などを投げ出すような症状が現れる。このとき大脳基底核は視床という部分とうまく連携できていない。視床は随意運動を制御する運動皮質に信号を送り、大脳基底核、視床、大脳皮質のループを完了させる。しかし大脳基底核がうまく機能しない場合、随意運動を適切に開始し、停止することができなくなる。

 実は大脳基底核と視床は、運動皮質の他にも前頭前皮質ともループを形成する。前頭前皮質は計画・思考・意識に関連している。ということは、大脳基底核が望ましい思考を促進し、望ましくない思考は抑制するという役割を果たしているのかもしれない。

 こう考えると、強迫性障害は認知における片側バリスムスと言えるだろう。

 この説の証拠として、皮質の脳活動と大脳基底核の活動との相関は、強迫性障害患者と健康な人とでは違うことが挙げられる。さらに強迫性障害の症状は、視床下核という大脳基底核の一部を刺激することで改善する。重症度と刺激による改善のどちらも、視床下核における神経の発火に関連している。

 神経撮像で強迫性障害の患者と強迫性パーソナリティ障害の患者の大脳基底核を比較しても、この仮説の裏付けが得られる。どちらも強迫観念と衝動強迫があるが、後者の場合は侵入性の思考や儀式はなく、それが性格の一環として現れる。このことは大脳基底核がそれぞれの症状において異なる役割を果たしていることを示唆している。


我々が思考を制御しているのか?思考が我々を制御しているのか?

 私たちは考えや行動の手綱を自分できちんと握っていると考えたがるが、その黒幕は脳の中にいる。サム・ハリスは私たちが思考を制御できないことを挙げて、自由意志などないのだと論じている。

 脳が生物コンピューターであると見れば、ハリスは正しい。一方、哲学者で認知学者のダニエル・デネットは、自由意志を「欲しがる価値がある」と評する。つまり、思考や行動が自身のアイデンティティや主体性に一致したときの心地よさだというのだ。強迫性障害の患者はこの一致感を自力で味わえないということだ。
posted by gensou-choumazin at 13:53| Comment(0) | 心理学・メンタルヘルス | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする